平成23年5月10日~5月14日 活動場所:宮城県石巻市不動町 【清水健太】


まず未だ多くの悲しみの中生活されている沢山の方々の、一日でも早い復興をお祈り致します。

○10日(火)-11日(水)
18時30分、堺市社会福祉協議会館集合。
荷物を預けた後、ゼッケンが配られる。現地で活動する班が発表され、班毎に顔合わせをする。
1グループ5名程度で構成されており、各班に1名災害ボランティア経験のある人がリーダーとして配置されていた。全部で8班、欠席者・スタッフ合わせて約40名で宮城県へ向かう。
夜行バスで13時間程移動する。皆気持ちの高ぶりと、慣れないシートで寝不足気味であった。
途中渋滞もあり少し遅れての現地到着となった。
まずは石巻市のボランティアセンター(専修大学)へ向かい、備品を借りた。
各班に①一輪車一台②平スコップ3本③シャベル2本④ちりとり3つ⑤バケツ3つ⑥水切り2つ⑦カニ(畳を運びやすくする道具)2つ⑧バール2つ⑨土嚢袋 を借りた。
実際は活動場所・内容により使う備品・使わない備品・上記以外に借りた備品があった。
市内の様子は車内から見る限り大きな被害があった様には見えなかったが、道路のほこりっぽさから、つい最近まで泥に浸かっていた様子がうかがえる。建物の中は泥とがれきでいっぱいであった。
11:30頃石巻市不動町着。ボランティアコーディネーターの存在が無く、現地に付いてまず自分達で活動家屋・内容を探さないといけない。全体としてボランティアの需要と供給が保たれていない。
活動中にすれ違う人に「うちもお願い」とお願いされるものの、どこの家でどういった内容かなど把握するだけで時間がかかり、非効率的な時間が多かった。
私が配置されたのは75歳の一人暮らしをされている男性の家だった。
内容は溝にたまった泥出し。狭い側溝に見合う道具がなく、初日は苦労した。
75歳には思えないほどパワフルな方だった。震災当日は津波が来ると分かった瞬間食料を2階に上げ、車を山に止めに行ったとの事。この機転が被災後の生活にとても意味のある行動だったと話されていた。
印象的だった話が「もう一度地震・津波が来ても、ここに住み続けたい。もし引っ越すなら同じ町内全員で同じ場所に。」と言っていた事である。普段の一人暮らしから、被災後の生活まで地域の交流・ふれあいがとても濃く、お互いに助け合いながら生きてきたからだ。皆がバラバラに避難すれば、それこそ「生きてはいけない」と話されていた。意外だったのは皆さんが笑顔であいさつして下さり、「ありがとう」と声を掛けて下さった事だ。
また休憩中に牛乳や饅頭を差し入れしてもらった時は、ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいだった。まだまだ満足に食料が無い中、人に感謝する・優しくする事を決して失っていない町だった。
作業は15時には終了し、2時間ほどかけて宿へ向かった。バス車内はビニル袋でコーティングされており、汚れないよう工夫されていた。納車したばかりの、少し広めの新車であった。「少しでもボランティアの方がゆったりと移動できるように」と言うバス会社からのありがたい気持ちであった。
途中、コンビニエンスストアに寄る。ここ数日で随分物流が回復しており、品ぞろえも良かった。
現地でお金を落とす事も大事な支援と言う事で、皆少しずつだが買い物をしていった。
宿に帰り、風呂に入る。生き返った心地がした。不動町ではつい最近水が通ったそうだ。
電気はまだ回復していない。震災から2カ月。どれ程当たり前が当たり前でなかったのか、想像もつかない。
たった数時間の作業が思った以上に体に負担となった。

○12日(木)
6時過ぎにバスに乗車して現地に向かう。昨夜のリーダーミーティングで石巻市の被害の大きかった所を見たいとの意見があったので、石巻港周辺へ向かった。
活動していた不動町から5分も歩かない場所では、まさに報道であった通りの場面が広がっていた。
特に鼻をつく臭い、肌に感じるホコリが印象的だった。
2ヶ月間、手の付けようが無かったのだろう。小学校のプールには車が浮いたままであった。 私はカメラを向けたが、レンズを向けている自分が石巻の人々にどう映っているのか考えた時、撮影など出来なかった。自分は何をしにここに来たのか、分からなくなる瞬間であった。
2日目は昨日の反省を活かし、効率よく作業が進んだ。
実際として、家を壊そうにも泥出しが終わった家でないと大工が入ってこないそうだ。
4~5人で2日がかりでやっと家一軒の泥出しが終わった。
これが日本列島太平洋側をずらっとあると思うと、規模の大きさを改めて実感できた。
中日と言う事で、宿に戻った後は懇親会が行われた。耳に障害がある人、心が少ししんどい人。
沢山のあつい思いが、集まっており、またそれぞれの職場からのサポートにも改めて感謝した。

○13日(金)-14日(土)
最終日。たった3日間の活動で、皆疲れがたまっていた。宿からの2時間の移動が良い癒しであった。
気がつくと(3日目にもなると)車がひっくり返っている町が普通に思えてしまった。
本日の活動場所は駐車場の泥出しであった。泥の中からは売り物のパールや子どものおもちゃ・結婚のお知らせの手紙と沢山の物が出てきた。それと同時に説明会で話された言葉を思い出した。
「それは被災地ですか?これは私たちの故郷です。それは瓦礫ですか?これは私たちの帰るべき我が家です。それはゴミですか?ゴミなんてありません。全て大切な家財です。大切な思い出です。」
被災された方々の心に寄り添うとは、こういった一言にも気をつけるという事。
自分から見ればゴミでも、大切な何かであるという意識。実際どこまでボランティアセンターに届けるべき物かは悩んだ。その境目が難しかった。

作業終了の後、貸出備品を洗って返却。宿に戻り帰る支度をする。
帰りの車内で自分が参加するにあたった気持ちを整理した。
それは「自分がスポットライトになる」事である。この2カ月だけで随分と被災の報道が減った。
日本人は熱しやすく冷めやすい。半年後のボランティアの数はどれだけ減っているのだろう。
たった数年では決して復興しないであろうこの状況をみて、大阪に戻り自分にできる事は常に意識を持ち、情報を周りの人に発信し続ける事ではないだと感じた。

最後にこの貴重な活動を、快く参加を進めて下さった高田施設長をはじめエルロイの職員の皆さまに感謝いたします。